初心に戻るのご挨拶

メタルで喝! 最終回


 お久しぶりです。
 何とか生きています。
 くろくろさんです。

 何度か復活するぞと言い放ち、しかし中途にして更新停止、これが何回続いたか。
 そのたびにメールをくださった方には申し訳ありません。

 こうして、更新できるということが、憲法に保証された最低限の生活を送っているということであり、今回も、できる限りこれを続けて行ければいい、と思っております。

 このアホサイトを始めたのがちょうど2000年。
 当たり前ですが、約15年前の私が書いておるわけです。
 今、読み返すと、これがまあ、恥ずかしい。
 文章力がない、言葉が軽い、何を言いたいのかよくわからない。
 やはり学の乏しい人間が、気力だけでたくさんの文章を書いても、気力を表現できたというだけで、さて肝心要のメタルをより多くの全世代に広めたい、という目標、野望は、スベリまくってきたんじゃないでしょうか。
 これではアホの宣伝8割、メタルの宣伝2割です。
 それを逆転すべく、実際アホが書いてることですからアホが5割程度残るのはどうしようもないとしても、5割は伝えるということ、情報で固めたい。

改善点

・いい歳をして、バカみたいな会話口調を改める。
・評価をつける。★5つ満点。
 しかしあくまで個人的評価であり、とてつもないくそアルバムが★5つだったり、めちゃくちゃ売れたアルバムが★1つだけだったりすることもよくある。
・評論家筋、一部ファンに向けた悪口をやめる。
 単純に、みっともない。
・80年代にデビューしたバンド、または80年代に終わったバンド、80年代をまたいで活躍したバンドの、私が持ち得る限りのすべての音源を紹介する。海賊盤の類はほとんど持っていないので紹介しない。
・ロゴマーク、メンバー写真の紹介。
 このサイトを作ったときに比べ、度量の広いミュージシャン側の解釈で、著作物を紹介する際の写真の著作権侵害については概ね目をつぶろう、というふうになったため。
・wikipediaへのリンク。英語ページ。日本語のウィキぺディアはリンクを貼ることができない。
・you tube音源へのリンク。どれだけマイナーなバンドでも、今はないものはない。バンド名によってはヒットしにくいものもあるので、リンクを貼っていない場合もある。
・関連作品(メンバーのソロ作品や、改名したバンドのアルバムなど)は一緒に紹介している場合もあれば、別個に紹介している場合もある。最終的にはすべて繋げる予定。
・amazonへのリンクは古くなっている場合がある。売り切れる場合もあれば関連作品が一気に廉価でCD化されることもある。
・各バンドの歴史はwikipediaをはじめ、世界的に著名なメタル百科事典サイト
http://www.metal-archives.com/
http://www.heavyharmonies.com/
あたりで調べさせてもらっている。
・内容は、誤記以外の私の感想については、基本的に訂正しない。
真っ白(真っ黒か)の何もないページからすべてを作り、構成もすべて自分でやっている、個人の趣味のページである。


 ということで、残る人生、全ページの改訂に邁進いたします。
 新しい、今のメタルはもういい。
 とりあえず80年代に始まった、活躍したバンドの全アルバム紹介を目指します。
 とりあえずAのバンドが済みましたが、その調子でZまで行きます。
 今度は本当、本気です。

 私生活が過酷であり、そして地獄度合いは歳を取るにつれさらに過酷度合いを増してきます。
 闘うのは、私はもうやめました。生きるも死ぬも、すべて世の動きに任せます。
 同時に、このアホページについて、私一人でできたことではありません。いろいろな方に助けてもらい、教えてもらい、そして虐めてもらい罵倒してもらい、本当にいろいろなことがありました。
 私にいまあるのは「反省」、
 ただそれだけです。

 実はインターネットそのものから遠ざかってました。
 ケータイは時代遅れのガラケー。
 ネットなしに人間、どれだけ生きられるか。
 ちなみにテレビも見てません。
 地デジの工事料がなくて、ずっとそのままです。

 それでも、別に、フツーに生きられますね。
 


しばらくサイトを休んでいた最大の理由


 今だから書ける話です。
 やっと書ける、というか、こういう話があるのを知ってほしかった。
 誰でもいいから。
 やっぱり、お客さんに助けられたという話です。
 ネットに感謝、という話です。

 ようやく、本格的に立ち直ることができました。
 あれからもう、3年以上経ったというのが信じられない。


 茨城県の田舎の方に住んでる、女の子3人組というのがサイトのお客様にいました。
 ろくに更新もしていないこのアホサイトあてに彼女らが初めてメールをくれたのは、今から6年、7年くらい前でしょうか。

 AちゃんBちゃんCちゃんとしましょう。
 初めてメールをくれたときは、まだ高校1年生でした。
 3人ともメタルが命と言い切る、しかし見た目は田舎の女の子そのまんまのお子たちでした。

 写真まで送ってきて、何をやっておるか。
 世の中には怖い事件も数々あるわけやし、こんなおっさんにメールを送ったらあかんよ、とも言ったことがあります。

 でもよくメールをくれました。なんと言うか、若い人が私(および同年代のメタルファン)が教えるメタルの名作を聴いてくれて、サイトをやっている甲斐があると私は思ってました。
 メタルのサイトは数々あっても、私のサイトが一番読みやすく、面白かったそうです(確かに文章力は中学生、高校生並みであります)。

 パソコンでのメールのやりとりが1年ほど、続いたと思います。
 彼女たちのメールの内容は、いつも質問ばっかり。
 自分で調べろ、と書いたことも2度や3度ではありません。
 メールが続いてくる時期もあれば、何か月来ない時期もあったり。

 ある日、突然修学旅行で京都に来るから、会いに来いと私は言われました。
 もちろん、嫌だとは思わんかったですが、周囲の目が恥ずかしい。
 不審人物と思われるに決まっているので、断りました。
 じゃあ、脱走して、3人で神戸まで会いに来ると言う。
 仕方なく、私は京都まで行きました。

 かつて、サイトの内容から勝手に私というものを想像されて、惚れて、私と会いたいと言ってきた、大人の女性がいました。
 その方は神戸まで新幹線に乗って会いに来ました。
 私はマン・オブ・スティールになり、空を飛び、会いに行きました。
 会った瞬間、世界が終わったような顔をされました。
 まさに新幹線の駅の改札で、いきなり。
 というか、あれだけ、人のがっかりした顔を見るのは初めて。
 つまり。
 私はそういう顔なんですわ。

 だから、会ってもいないのにメタルのおじさんやら抜かす、女子高校生たちに与える衝撃を考えて、気分は、仕事が終わって車の中でランニングシャツに着替えた瞬間、女子寮の風呂修理に突然今すぐ行けと命令された配管業のおっさんのようなもの。
 私はすぐに去る用意をしながら、巨大なJR京都駅の地下の喫茶店で、ジャージの上に女の子らしい服を着た変な3人と、会いました。

 女子高生3人の果てしないしゃべり攻撃の真っ直中に身を置いたのも、生まれて初めてでした。
 彼女たちは私の姿、顔を見ても何ら臆することなく、2時間程度、ずっと私は本当にメタルのおやじのように、話を聞き、笑うしかありませんでした。


 3人のうちAちゃんとBちゃんは従姉妹に当たります。
 やがて彼女たちは高校を卒業して、Cちゃんは地元茨城で普通に就職しましたが、従姉妹同士の二人は何とも時代遅れの微笑ましい、メタル少女+フリーターになって、親を困らせました。

 今にして思えば、本当に不思議な偶然だった。
 月収はずっと10万円行くか行かないかの派遣の肉体労働であり、今現在5年目くらいになり、今も当時も東京へなど行けるはずがないのですが、当時、派遣バイト先の本社が東京にあり、派遣バイトの若い連中の指導を、同じく派遣バイトである老人の私が任され、東京にあるその会社まで、会社の金で行ったことが数回あった。
 そのついでに彼女たちがまた会いに来てくれた。
 メタル屋巡り、コンサートもないのにコンサート会場巡り、私も田舎者であり、関東在住のくせに彼女たちも輪をかけて田舎者であり、楽しかった思い出になった。

 こういう話をすると、私が変態扱いされるでしょう。
 だから余程の知り合いにしか言わなかった。その知り合いにしても助平な目で見やがるし、困ったもんでした。
 これも長い年数、仕事場の夜の空き室利用で学習塾をやっていて、私自身の精神年齢も高くないせいか、かつては中高生とは普段でもよく接していました。
 高校卒業して何年も経っていない子はみんな、私が従事していたことのある学習塾に来ていた、子供たちみたいなもんです。

 やがて従姉妹同士AちゃんBちゃん家族が、里である観光名産店+水産加工店が忙しくなり、宮城に帰ることになった。
 メタル少女2人は家の仕事を手伝うということで、家族と一緒に宮城に帰ることになりました。

 うちBちゃんは関東から離れたくない、メタルが聞けない、コンサートがないということで、しばらく、茨城のCちゃんの家に居候していたようですが、一か月もしないうちに宮城の実家へと強制連行されていきました。

 それが3年半ほど前、2010年冬くらいのことでした。

 彼女たちはパソコンにもネットにも疎かった。
 私は金を稼げるようになったら必ず買うように!というお達し付きで、DVDロムにアレして、安価で手に入れたソレを送ってあげたりしておりました。

 年が明けました。
 3月になりました。

 3月11日。

 宮城のAちゃんBちゃんと、まったく連絡が取れなくなりました。
 茨城のCちゃんに連絡したところ、2人の消息はまったくわからないとのことでした。

 ちょうどあのとき私は、神戸を引き払って大阪に帰ってきた頃であり、アルバイトとアルバイトの境目で、私はヒマだった。
 AちゃんBちゃんの消息を知るのが第一目的で、私は知り合いに安くライトバンを売ってもらい、神戸の震災の時にいくら数があっても足りなかったタオル、軍手、帽子などを山ほど買い、ライトバンに乗せて大阪から宮城に向かいました。

 まっさか、神戸のあの景色、いやあれよりもっと酷い景色を見ることになろうとは思ってもいませんでした。

 しかし脳味噌空っぽ、行かなあかんから行っただけのことです。
 神戸の震災を体験して、時間が余っている人間なら、誰でもそうします。

 3月20何日、震災から10日程度経過していました。
 立ち入り禁止規制はまだなかった。
 ただ、幹線道路は通行規制が敷かれていたので、知らない土地で何度も迷いながら、途中合計四回くらいタイヤがパンクし、知らない人にタイヤをもらったりして、二日半かけて、宮城に到着しました。

 AちゃんBちゃんの実家と、お店があるところへ行きたかったのですが、あと車で一時間程度という場所で、道がもう、めちゃくちゃでした。
 足は(というか車は)自然と近くの避難所に向いていました。
 長州力がいて、驚きました。
 避難所を回って、物資を配っておられました。

 私のライトバン一杯に積んだ物資は、どうぞ持っていってくださいと避難所周辺の人に言うと、10分で全部なくなりました。
 車はとりあえず邪魔にならないところに置かせてもらって、AちゃんBちゃんのいるところまで、歩いていくしかありません。
 西日本から来た人たちと、同じ場所を目指しました。
 途中から単独行程になってしまった。
 私の悪い癖ですが、通れない、待て、と言われると、勝手に自分で先に進んでしまう。

 3人目、程度まで。

 私は大きな声を出して、疲れて果てている消防団の人たちを呼びに行った。
 走ってこけて頭を切ってしまったけど、それでも走った。

 神戸の震災同様、やはりテレビでは決して映さないシーンです。

 まさか、神戸で体験した、あれよりもひどい場所を歩くなんて夢にも思わなかった。
 不謹慎ですが、映画の世界でした。
 世界の終わり、なんて言葉がずっと頭に浮かんでました。
 歩いても歩いても、死の景色なんですから。
 そして亡くなった方が、亡くなったそのままの姿で。

 神戸なんて、本当に比べ物にならなかった。

 テレビなんて結局、惨状の3割も伝えてないのです。

 とりあえずAちゃんBちゃんの消息を知りたかった。
 日が暮れたら、本当に真っ暗闇です。
 だから私は、数人目以降は、周囲の元建築物、元道具(決してガレキなどと言いたくないです、今でも)を除け、その方が目立つようにして、拝んで、先に進みました。
 何度も言いますが、もう、神戸とはまったくスケールが違った。
 神戸は街、都会です。
 悲惨な場所も多々見たけど、歩けば必ず人の集団がいた。どこでも。 
 震災当日からすでに20日程度、経過していました。避難所、役所やショッピングセンターの跡地には人はいましたが、そこ以外の広大な土地には、人間含めた死んだ生き物と、廃墟と残骸があるだけ。
 海辺の町は数100できかない。
 その広大な土地が、廃墟以上の、残骸と化していたのです。

 そしてAちゃんBちゃんの家は、そのエリアは、大火事に海水をぶっかけたような状態で、もはや町ではありませんでした。
 何時間も障害物を乗り越えてきた足をもってしても、そのエリア一帯には近づけなかった。焼けた鉄骨が、あちらこちらに転がり、鋭い金属がそこら中に生えている。
 足がずぶずぶと沈む。
 
 周囲の避難所では、以前の神戸と同じ光景がありました。
 ただしケータイやら災害伝言ダイヤルがあるから、生き別れになった人たちのパニックは少なかったように思いました。
 しかし、壁にめちゃくちゃに貼られた、人の消息を問う紙。
 そこにいたおっさんが言いました。生きてたらケータイで連絡取れる。二週間も経って何もわからないということは、死んでるさ、もう。
 避難所には次から次へと人が押し寄せ、人を捜している。
 役所の人たちがテーブルで専用窓口をいくつも用意してましたが、そのどれもにたくさんの人が並んでいる。
 家族優先です、家族優先です、若い女性が声を枯らせていました。

 私はAちゃんBちゃんの消息は何も分からないまま、そこを後にしました。
 体力が尽きた、というのが一番の理由です。
 車に積んできた食い物は、ええかっこして馬鹿みたいに全部あげてしまった。ナップザックに入れた食い物もなくなった。
 AちゃんBちゃん居住地近くの避難所では、中学生、小学生が「一人1個です」「一人1回だけです」と書かれたボードを持って、憔悴しながら食べ物を配っている。
 帰るしかありませんでした。

 車は元々そのつもりだったので、車を置かせてもらった避難所に寄付してきました。孤島の人に船を寄付したかのように喜んでくれた。

 そのときには茨城のCちゃんとは会わなかったんですが、以降、何度か仕事を休んでまで、Cちゃんも茨城から宮城まで出掛けたそうです。
 しかし何度出掛けても、AちゃんとBちゃんの家族の消息はわかりませんでした。

 おっちゃん、あのね、AちゃんBちゃん、絶対生きてるよ!
 おっちゃんと呼ぶなと何回言わす。そうやな。家も全部なくなったら、まず生活の建て直しが第一、ケータイも紛失してたら連絡先もわからんようになってるやろ。動けるようになったら必ず、絶対にCちゃんのところに連絡が来るから。
 うん、私あんまし、心配とかしてないから!
 おう、それでいい。Cちゃんもあんまり無理すんなよ。

 何度か、電話で会話しました。

 ある日、Cちゃんの親御さんから電話がありました。
 Cちゃんから話を聞いたんだそうですが、親ほど年齢差があるあなたは、うちの娘に連絡などしないでください。
 ということでした。
 震災というあり得ない出来事があったので、普通に連絡を取り合ってましたが、震災直後に不便な暮らしを少々体験した程度の地域に住む親御さんにしてみれば、私は20歳の娘にまとわりつく変態であり、異常者であることでしょう。
 私は何もやましい部分がないので、こうなってああなって、そういうわけです、と説明はしましたが、迷惑ですから、と言われた。

 以降、一度も話していません。
 ただしメールのやりとりは続きました。Cちゃんからのメールは全部、AちゃんBちゃんを心配する内容ばかりでした。

 6月。7月。
 まだCちゃんのところには、AちゃんBちゃんから連絡がありません。

 そんなとき、私はバイトをクビになって、また暇ができた。
 再び宮城に向かいました。
 
 復興などとは、まだ全然言えない状態でした。
 1階2階がにブルーシートが敷かれ、3階だけで仕事をしている役所へ行って、尋ねました。

 AちゃんBちゃんは消息不明、ということでした。
 隣同士の家に住んでいて、Aちゃんは7人家族、Bちゃんは4人家族。
 Aちゃん家族は7人中、2人が助かった。兄さんの奥さんと小さい子供が助かって、避難所にいる。
 その兄さんは仕事場で被災して、亡くなられた。
 Bちゃん家族は4人全員、消息不明。
 店も、家も跡形なく焼失し、全部流された。

 Aちゃんの兄嫁と小さい子供さんがいる、避難所に行きました。
 インターネットのサークルとか、そんな悠長なことやってる人間は、今いないんです。興味本位で来たのなら帰ってください!ときつい関東弁で、お言葉をもらいました。

 前回来たときとは違い、私も金、苦しかったので、何も持っていなかったのがダメだったのか。
 自分が被災してみればわかります。
 知らない人間が話をしに来て、手ぶらで、身内の話聞かせてくれと言っても、帰れ、というのが当然の態度です。
 ただし、ここまで来て何もわからないまま帰るわけには行かない。
 大阪から来たんですと食い下がると、AちゃんBちゃんのことについては、立ち話で、教えてくれました。

 AちゃんにとってもBちゃんにとっても家業の手伝いはしんどかったようです。
 そりゃそうでしょう。
 水産物加工、そして土産物の会社をしているそこでは、身内、社員の区別なく、朝から晩まで仕事。そこの娘ということで給料は雀の涙。それはCちゃんから私は聞いていました。
 Aちゃんが真面目に働く一方、Bちゃんは家に住みながら家族に反逆し、駅前のショッピングセンター(そこも廃墟になってました)の本屋と、近所のガソリンスタンドでバイトしていたそうです。

 そのときその瞬間、AちゃんもBちゃんも家にいなかった。平日の真っ昼間です。
 Bちゃんはガソリンスタンドにいた。海が近くに見える場所。
 そしてAちゃんは車の免許を取ったところであり、軽自動車で、製品を海産物工場から店まで、運んでいる最中だったそうです。

 車は川の河口に沈んでいるのを発見されましたが、Aちゃんは乗っていませんでした。

 何も、まったく、いまだに本当に何もわからないまま、今に至っている。
 BちゃんところはBちゃん含め、家族全員です。
 行方不明ということは、確かに行方不明であり、今でもどこかにいる。
 というか、どこかに「ある」。

 さすがに私は神戸の震災を真っただ中で体験したので、免疫が出来ているというのも変な言い方ですが、慣れてはいる。
 悲しいけど、涙など出ない。
 海のにおいが、本当にもう大嫌いになってしまったけどね。

 元気な高校生だった、メタルが好きだと輝いた目で話すあの子らが、おそらく、未来永劫発見されることのないままの状態でどこかに「ある」ということに、私はただただ災害の怖さを感じ、神様など絶対いないということに絶望するのみです。
 それが、災害なのです。

 運命とやらは、そんなもん、実際は存在しません。偶然の連続を勝手に運命などと、言ってるだけ。
 人には幸運な偶然、不幸な偶然、どうでもいい偶然、それらがあるだけです。
 人の口を経ると物語も出来ますが、人間など、そのときそのときの出来事に対処して、死ぬまで生きていくしかない。

 老人派遣肉体労働、すぐにクビ、そういう、公・社会に生きていくことを許されていない私がこうして生きていて、なんで、あの子らが。

 せっかく生まれたんだから頑張ろうとか、
 自分を大事に、とか、
 生かされて生きている、とか、

 あの光景の中に身を置いてごらんなさい。

 人間って、こんなに脆く、死にやすいもんなのだと、それしか私は思わなかった。

 今になってようやく、you tubeなどでも、テレビが決して映さなかったリアルな惨状を見ることができるみたいですが。
 関係ない地域に住む人たちには、「映すべきじゃない」とか、まあ、よくもまあそんな、人でなしを超えた、人間離れしたことが言えるもんですよ。

 私はもう、普通に生きるのが嫌になったし、大阪という都会に住む人たちが嫌になった。

 平和ボケが、苦痛でしかないのです。

 私は平和ボケてはいません。毎日地獄のような貧乏生活です。
 しかし世間は平和。

 映画館でみんなで歌を歌おう。
 オリンピックオリンピック。
 消費税アップの何兆円のうち、たった2割程度が福祉に回されるに過ぎないこと、そして介護保険制度変更というより利用者に大きな制限が付く介護改革が誰も知らない間に強行採決。なぜかテレビも新聞も報じない。後は自死幇助法案でもできれば完璧だ。
 でもおれにゃあ私にゃあ関係ない。大好きなコマーシャルとショッピングセンター。踊って回って、毎日楽しい。困っている人はみんな黙ってて静かなんだから、何100万人いようが、いないのといっしょ!

...捻じ曲がった平和が、苦痛で仕方ないのです。
 

 AちゃんBちゃんの家に歩いて向かう途中。
 寒い中、赤いジャージのズボンに半袖Tシャツ姿のヤンキー娘が、なぜか靴を脱いで、地べたに座って、子供のようにわあわあと泣いてました。
 崩れた家に囲まれた、危険な場所で。
 殴りかかってくるというので、消防団の人たちは彼女が落ち着くまで、遠巻きに見てました。
 しかし私はそこを通らねばならなかった。
 だから、そばを歩いた。
 その子は、ほとんど何を言ってるのかわからない言葉で、私に叫んだ。
 私は上着を脱いで、着せました。
 彼女は消防団の方たちと、どこかへ去りました。
 もっと分厚い上着を、消防団の方からいただきました。

 なぜ彼女が私に話しかけたのでしょう。
 消防団の方たちは涙も枯れ果て、ただ黙々と働いておられました。
 私だけが、顔面全体で泣いていたからです。

 知らない間に泣いていたというのは、神戸の震災以来です。というか、涙を流したこと自体があの時以来。
 しかし何度も言いますけど、神戸とは何もかもが、スケールが違いました。

 次は、平和ボケした人たちに襲いかかってくるんですよ。大災害が。

 近しい人間の死でもってしか、普通に生きているありがたみが自覚できないのか。馬鹿どもめ。

 と、暴言を吐いたところで、やっぱり、「被災者テロ」のひとつも起こさないあっちの人たちに教えられたものは大きく、日頃は私は至って常識人として、生きてはおるんですけどね。
 1日1食だなんて誰にも悟られない程度に。

 いなくなったお子たちよ。
 本当は、明るいその性格を活かして、きっと後輩に、音楽の素晴らしさとか、教えてくれたんだろうね。
 
 私は仮にも人生の先輩として、もうちょっとだけ、頑張ることにする。

 私は、当たり前ですけど、1人の人間です。
 だから1人の人間を幸せにして、とんとん。
 1人でも、音楽に救われるような場面を味わってくれたら。その協力が、私にできるのなら。

 今回は、もう途中で投げ出しませんよ。
 絶対最後まで、更新してみせます。

 それが済んだら・・・90年代メタルにも手を伸ばして、サイトの名前もkronikle of HEAVY METALと変えましょうか。

 平和ボケしたまま歳食って死ねるのなら、それもまたとことん幸福な偶然だと思う。
 本心は、私も平和ボケの仲間になりたい。
 
 で、幸せな時だけに集まったりせず、困っているときにこそ人を助ける、そういう老人になるつもりです。

 今はですねー、無職になって何年ですから、友人もいなくなったんですわ。クビになるたびにメンツが変わる、派遣バイト先の人間がまあ、知り合いと呼べる程度で。

 幸せ人間同士いつも集まって、私も仲間という認識を連中が持っていたときは、よく呼ばれた。

 幸せの宣伝をすると、人が寄ってくる。
 不幸になると、人はみんな離れていく。
 本当に困っているときは、誰も助けてくれない。

 だから、自分で死ぬ奴は死にます。
 人生に絶望したというより、疎外感の方が絶対強いと思う。
 そういう人たちのほとんどが、そうだと思う。
 
 困っているときに、そばに誰もいないのは本当につらいねえ。
 わかりますよ、本当。
 でも死んでしまう人を見たら、と言うか、知ったら、なんちゅう勿体ない、といつも思う。

 みんな、思い切った行動で、状況を改善できる人たちばかりだと私は思う。
 かわいい女性じゃないですか。愛嬌で乗り越えられますって。自分から周りの人を理解するようにしたら。
 剛健な男じゃないですか。何か月かだけ馬鹿になって働いて、金を手にしたら気分は変わるって。

 私など、薄汚い老犬ですよ。誰も触りに来ないし、子供が近づいても親が血相変える。
 具体的にどうしてこれから生きていけばいいのか、それを考えると途方に暮れるが、それでも、どういうわけか、死にたいとは思わんのですね。

 こんな状態にありながら、なんとか這い上がろうとしている自分が、やはり人間生きている限り成長する、ということで、仕事をやっていた時代よりも人間は成長したなあ、と、誰も思ってくれんから自分で思う、、、
 そういうめでたさがあるだけでも、まだしばらくは大丈夫ですわ。

 もちろん、生きる原動力は80年代メタルです。
 暑苦しいとか、言う奴は言っとけ。
 どうも、生きる、死ぬの状況、景色を一般人より間近にしやすい偶然が何年経っても続いている人間なもんでして。

 それでも、君たちと知り合えたことは、どんな大会社の会長と知り合うよりも、何倍も光栄なことでした。
 

 当分はネット(というか、サイトの更新)にまたのめり込んで。
 1年後は1年後の風が勝手に吹いとる。
 
 今の今、急に聞きたくなったこの名曲。
http://www.youtube.com/watch?v=imyOegSSZRk

 ずっと、こんな気分で進みますぜ、私は。


 というわけで、長い長い、復活の言葉でした。

 ここまで読んでくれた方、ありがとう。

 仕事がない日々、何もせずに家にいれば、頭がおかしくなります。
 ネットは使えなかったですが、数週間かけて、メタル活劇というくだらん、読み物を作りました。
 そっちも読んでくだされば嬉しいです。

 これからは、昔みたいな、あんな敵ばっかり呼ぶことは言わないつもりですから。
 わからんけど。
 わははは。





inserted by FC2 system